2009年07月03日

 織田信長によって破壊された石山本願寺の跡地には

 織田信長によって破壊された石山本願寺の跡地には、豊臣秀吉が大坂城を築いて政治の中心となり、同時に大規模な城普請で人と物資が集まって経済の中心地となった。しかし、1615年の大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏も滅ぼされた。1619年、大坂城下は江戸幕府の天領となり復興、幕府の派遣した大坂町奉行が支配するところとなる。江戸はまだ出来たばかりで商品生産力がない上、参勤交代で大名・家来などによって大消費地となったため、当時の工業都市である京などから大坂を経由して菱垣廻船・樽廻船で江戸へ物資が運ばれた。さらに各藩の蔵屋敷が集積し、北前船も入港して、大坂は「天下の台所」として経済・商業の中心的役割を担った。付随して、裕福になった町人により、文楽を始めとした様々な文化が生み出された。また河川・運河とそれに架かる橋の多さから、江戸の「八百八町」や京都の「八百八寺」に対して「八百八橋」と称された。

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1570年 - 石山合戦(?1580年)、織田信長により石山本願寺が壊滅する。
1583年 - 豊臣秀吉が石山本願寺の跡に大坂城を築く。
1612年 - 道頓堀が完成。
1615年 - 大坂夏の陣で大坂城下は焦土となる。
1619年 - 大坂城下は天領となり復興、大坂町奉行所が管轄。以降日本の物流の中心地として繁栄し、「天下の台所」と呼ばれる。
1684年 - 道頓堀に竹本座開館。元禄文化の担い手である竹本義太夫、近松門左衛門らによる人形浄瑠璃が人気を得る。
1730年 - 堂島に世界初の近代的な商品先物取引所たる堂島米会所が開かれる。
1837年 - 大塩平八郎の乱。
1838年 - 緒方洪庵が船場に適塾を開設。

2009年06月13日

有機化学(ゆうきかがく、organic chemistry)は

有機化学(ゆうきかがく、organic chemistry)は、有機化合物すなわち炭素化合物の合成、性質についての研究を目的とする化学の分野である。伝統的には二酸化炭素や一酸化炭素、炭酸などは有機化合物に含めない。大体は C−C 結合か C−H 結合を持つものが有機化合物である。また、ある有機化合物を炭素以外(金属元素の場合も含む)の基で置換した構造を持つ化学物質も広義の有機化合物として有機化学の対象とされる物もある[1]。

構造有機化学、反応有機化学(有機反応論)、合成有機化学、生物有機化学などの分野がある。

100を超える元素の中で炭素の化合物だけが特に取り上げられる理由は、炭素が無限の多様性をもつ物質を作る材料になりうるからである。実際、現在知られている化合物のうち、炭素以外の元素のみからなるものは、炭素を含むものにはるかに及ばない。また生体を構成するタンパク質や核酸、糖、脂質といった化合物もすべて炭素化合物である。これは、炭素が −C−C−, −C−O−, −C−N− といった連鎖を任意の数だけ繰り返して共有結合できる唯一の元素だからである。ケイ素はいくぶん似た性質を持つが、炭素に比べると Si−Si 結合やSi=Si結合等の安定度が低いために炭素ほどの多様性をもたない。

有機化学が誕生する以前から人類は様々な有機物を利用していた。食べ物については言うに及ばず、麝香や樟脳等の香料、石鹸やアルコール等がその好例である。石鹸は油脂を植物灰中の金属塩と反応させて作られていた。

従って有機化学の始まりを定義するのは異論のあるところである。初期の有機化学は有機物が持つ性質を分析することであったと考えられる。何故ならば有機物は人工的には合成することができず、生命の神秘的な力によって生まれると考えられていたからである(生気論)。二酸化炭素などは炭や木を燃やせば作ることができるため、生命力に依らない無機物であるとされた。つまるところ、人によって作ることができず、生物によってのみ作ることができる物質が有機物であると考えられていたのである。

生気論は1828年にフリードリヒ・ヴェーラーによって打ち破られた。彼はシアン酸アンモニウムの加熱によって有機物たる尿素が得られることを示したのである。これ以降も様々な有機物が合成されるに至り生気論は崩壊した。これによって有機物の定義は冒頭にある通りになった。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

その後、様々な有機化合物の性質が調べられ数々の反応が発見された。その中で特筆すべきものとして芳香族化合物の発見があげられる。最初に見つかった芳香族化合物はベンゼンである。ベンゼンの構造はフリードリヒ・ケクレによって示された(注:「ケクレがベンゼンの構造を示した」というエピソードについては異論も唱えられている。本件の詳細はケクレの項目を参照のこと。)(ベンゼンの構造として別にプリズマンやデュワーベンゼンが提唱されたが結局却下された)が、二重結合を有する物質の割に反応性が低いことや、置換誘導体の種類が少ないなど奇妙な性質を持っていることが分かった。この奇妙な性質の原因が解明されるのは量子力学が導入されてからである。

さらに時代が下って1934年、ウォーレス・カロザースによって最初の合成高分子たるナイロンが作り出された。やがて有機化学の発展と共にゴムや接着剤、樹脂などが合成されるようになり、靴下から宇宙船まで様々な分野に応用されている。

また、有機化学は生物を構成する物質を扱う学問であり、生化学とごく密接に関連している。生化学における反応の理解や、生体物質の解析などに一役買っているのである。

現在では、有機化学は生化学や高分子化学の基礎として位置づけられている。

2009年06月09日

民間企業の獣医師

民間企業のうち、乳業・食肉・家畜飼料等の関連企業では営業や品質管理、製薬関連企業及び独立行政法人を含む各種の研究施設では、検査のほかに実験動物の生産や管理を行う獣医師も置かれる。また、慢性的な獣医師不足はこれら研究施設を悩ませている。

公務員の多くと同様に臨床業務に携わる事は無いが、研究者としての高度な獣医学上の知識や技術だけでなく、マーケティング感覚や消費者ニーズに即した柔軟な発想・コスト意識が要求される。

ただし公務員と違って、企業によっては必ずしも獣医師免許を必要としない場合もある。


獣医師免許取得者の動向 [編集]
ペット動物の多様性や社会的地位の向上以外にも、「動物のお医者さん」・「向井荒太の動物日記?愛犬ロシナンテの災難?」のような獣医大学の学生を主人公とした漫画・ドラマの影響によってここ数年、獣医師は「なりたい職業」の上位にランキングされるようになってきた。

また前記のようなドラマや、特に女子学生の増加による影響で、学生の卒業後の進路も小動物臨床分野を希望する比率が年々高まっている。近年では女性獣医師に対する農場や現場の先輩獣医師の理解も高まり、産業動物分野への就職を希望する女子学生も増えてきてはいるが先述のとおり、産業動物分野の主な対象は牛など大型の動物であることから肉体面での負担が大きく、活躍の場も地方の農村が中心であることからこれを敬遠する女子学生は少なくない。

両親が開業臨床獣医師でない者を中心に「生活の安定」を求める意味で、地方自治体や公的研究機関など公務員の獣医師を志す者も少なくない。しかし最近は公務員でも、下記のような相次ぐ組織の統廃合に伴う人員削減や事業の縮小及び外部委託によって、収入どころか身分的にも「安定」とは言えない状態になっており、それに伴う職域選択幅の縮小による人事の停滞・硬直化も起こっていることから、学生の志望は給与・人事等の待遇面で少しでも条件のいい自治体・団体への偏好が目立つようになっている。
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保健所の施設数削減、及び保健所からの動物関連業務の撤退(=動物愛護施設への集約)
畜産試験場や衛生研究所等、試験・研究機関の法人化(独立行政法人・財団法人等)
動物園・水族館への指定管理者制度導入による事実上の民営化
公務員として働く獣医師には、大学に6年間通う分の基本給への年齢的加算や特殊な業務に対する特殊勤務手当の支給がされる場合もあるが、給与体系は事務職員などのいわゆる一般行政系職員と同一である(稀ではあるが埼玉県などのように、獣医師と薬剤師の初任給を他職より1級高く設定している自治体もある)。

また、労働基準法の有期労働契約5年特例職である医師や歯科医師などと違い、定年退職の年齢は一般行政系職員と同じ60歳である。定年退職の年齢が一般行政系職員と同じという点で、他の職員に比べて勤続可能年数が短い(4年制大学新卒者が22歳なのに対して新卒獣医師は24歳)うえに上級職のポストが殆どないことから昇任の機会にも乏しく、退職手当まで含めた場合の総合的な待遇は高卒相当の事務職員よりも劣る場合があると言われ、国家レベルでの免許を持っているにもかかわらず多くの大卒行政職員と比較しても格段の差がある。

更に公務員全体に対する基本給の削減や年金制度改革によって、開業臨床獣医師や企業獣医師との生涯所得格差がますます拡大している。このような傾向は特に市町村合併によって誕生した比較的新しい中核市・政令指定都市で顕著であり、基本給が地域の最低水準となったり、他の自治体であれば普通に支給されるはずの手当がなかったりと、一般行政職員との差がますます広がっている。このため、公務員を志す目指す学生は、たとえ都市部であっても新興政令市は敬遠する傾向がある。

一方で政府は、BSEや高病原性鳥インフルエンザ・O157など人獣共通感染症及び食の安全に対する国民の関心の高まりを受けて家畜衛生・公衆衛生に従事する行政獣医師の社会的ニーズが高いと判断し、平成20年度以降の各獣医大学の定員増加計画を検討している。

2009年04月25日

東方問題の顕在化

「東方問題」以前、バルカン半島はオスマン帝国の統治により「パクス・オトマニカ」(オスマンの平和)の安定のもとにあったとされる。オスマン帝国によるバルカン制圧当初はイスラームの支配を嫌う住民が流出し、人口減少に襲われたが、16世紀になるとその統治は安定化した。東欧に領土を拡大するオスマン帝国に対し、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国は脅威を感じていた。

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17世紀に入ると、徐々にオスマン帝国の国力は弱まり「東方問題」の素地が形成された。大規模なヨーロッパ進撃を図った1683年の第二次ウィーン包囲の失敗を境に、バルカン半島におけるオスマン帝国領は縮小・解体の方向に転じた。オスマン帝国は1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを失い、東欧での拡大が阻止された。これ以降ヨーロッパに対するオスマン帝国の脅威は薄れ、東欧では再びヨーロッパ諸国が支配的となった。

18世紀初頭には、オーストリアはオスマン帝国との戦争で連勝を続け、1718年のパサロヴィッツ条約ではオスマン帝国からベオグラードを一時的に奪取した。同時期、ロシアは1700年にオスマン帝国から黒海沿岸のアゾフ を獲得し黒海支配の足がかりを得たかに思われたが、1711年のプルート戦役では敗北してアゾフを返還した。ロシアの圧迫は一時的に緩和され、オスマン帝国はしばらくの間安定した時期を迎えた。従来オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国に特権としてのカピチュレーション(外交特権、治外法権なども含まれる)を与える恩恵的な性格の強い外交政策をとっていたが、この時期には西欧文化・技術を吸収する西欧宥和政策に転換した(チューリップ時代と呼ばれる)。1719年ウィーンに、1720年にはパリに外交使節を派遣するなど自ら積極的な外交を展開する姿勢を示した。

1736年にロシアが再びアゾフを求めてオスマン帝国と争う露土戦争を開戦した。この戦争の結果は1739年のベオグラード条約で、これによりロシアのアゾフ領有が確定しロシアの黒海進出を招いたものの、オスマン帝国はオーストリアからベオグラードを奪還した。しかしこの戦争ではその結果よりも推移状況において「東方問題」に特徴的な傾向が現れた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の1年後にロシアを支援する形で参戦したが、ロシアの影響力の拡大を恐れたために、休戦交渉においてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。ここでは「東方」をめぐる紛争に、紛争の当事者以外の第三国を介入させることで勢力均衡を維持しようとする「東方問題」の基本構造を見ることができる。

2009年04月08日

時代 (中島みゆき)

『時代』(じだい)は、中島みゆきの2枚目のシングル。1975年12月21日にキャニオン・レコードよりリリース。

この曲は1975年10月のヤマハ音楽振興会主催の『ポピュラーソングコンテスト』本選会、同年の『世界歌謡祭』にてグランプリを受賞した。初代版シングルは1975年12月にリリースされた。 翌1976年リリースの1stアルバム『私の声が聞こえますか』にはアコースティックな別ヴァージョンで同曲が収録されている。

後年、卒業式で歌われたり、音楽の教科書に掲載されたりして親しまれ、「昭和を代表する名曲の一つ」になった。 2007年に「日本の歌百選」にも選ばれており、中島みゆきの代表曲といわれている。

1993年には自身としてもアルバム『時代-Time goes around-』でリメイクし、現在はリメイク曲の方が多くかけられることが多い。なお、リメイク版も同年12月にシングルカットされている(『時代/最後の女神』を参照)。

主なカバー [編集]
1978年に研ナオコと桜田淳子に、それぞれアルバムの中でカバーされた。
1988年には薬師丸ひろ子によってカバーされた。
2003年3月には岩崎宏美によってカバーされ、アルバム『Dear Friends』に収録された。
2003年7月には工藤静香がNTV系『エンタの神様』に出演し、東京タワー展望台から歌唱した。
2005年には徳永英明によってカバーされ、アルバム『VOCALIST』の先行シングルとして発売された。
2007年には夏川りみと桜田淳子が時代をカバーしたアルバムをリリースしている。
CD化はされていないが、ゆずが「スマイルコンサート2006」で時代を唄った。
aikoとコブクロもコラボでカバーしている。
他にも多くの歌手にコンサートなどで歌い継がれている。

収録曲 [編集]
時代(作詞・作曲:中島みゆき)
傷ついた翼(作詞・作曲:中島みゆき)
1975年5月に『ポピュラーソングコンテスト』に初出場した際に歌われた曲。中島はこの曲で入賞した。

アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

2009年03月24日

600V時代の附随客車については

600V時代の附随客車については、下記の5両が存在したと推定されるが、鉄道統計資料や営業報告書の記載に矛盾がみられ、正確なところはよく判っていない。1 - 3については、1917年(大正6年)度の鉄道統計まで記載されているが、それ以後は消滅し、1920年後期の営業報告書では2両の記載が見られ、さらに翌年前記では3両に増加し、これが1922年(大正11年)度まで続いており、要目については1 - 3と同一の数値が記載されていた。しかし、同年度の鉄道統計資料には29, 30に相当する2両のみが計上されており、営業報告書の数値と矛盾する。

1909年の開業に際して用意された天野工場製の2軸客車であるが、軌道法の規定により連結運転が認められなかったため、連結運転認可を受けた1910年(明治43年)8月29日付けで入籍、使用が開始された。台車形式は不明だがブリル製、自重は3.4tである。
2, 3
1912年(明治45年)天野工場製の2軸客車で、車体は1と同形である。自重は3.4t、定員は37人。
29, 30 → 35, 36
1919年(大正8年)7月、日本車輛製造製の2軸郵便荷物車である。荷重は7tであるが、郵便室と荷物室の間は簡単な柵で仕切られていたのみである。番号が従来の客車に比べ、大きく飛んでいるが、これは貨車である有蓋緩急車の後に付番したためである。
第1次大改番により35, 36と改番されたが、この時も有蓋緩急車の後に付番されている。昇圧まで使用されたが、1924年度に35が廃車、翌年に36は有蓋緩急車(貨車)に類別変更され、ワフ36となっている。

電動貨車 [編集]
1 → 4(2代)
1909年の伊那電車軌道開業にともない、前述の電動客車3両(1 - 3)と同時認可により、天野工場で製造された電動貨車である。荷重は2t、25PSの電動機を2基、ブリル21E台車に装架し、車体長を18ftとする記録がある一方で、荷重5t、最大長23ft6in×最大高10ft9 1/4in、最大幅6ft1/2in、電動機36PS×2個とする記録もあり、途中で自社松島工場で車体を新造し載せ換え、または、全く別物の新造車に振替えられた可能性が高い。
第1次大改番により2代目4に改称されたが、昇圧後は使用されなくなり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車された。
2, 3 → 2(2代), 4 → 3(2代), 5
貨物需要の増加に伴って、1914年(大正3年)に4両が天野工場で製造されたものである。荷重は5t、最大寸法は長さ24ft11in×高さ10ft9 1/2in×幅5ft10 1/4inで、台車はブリル21E、電動機は50PS×2である。
3, 4は、第1次大改番によって2, 3(いずれも2代目)に改められたが、1928年(昭和3年)4月25日付けで岡崎電気軌道(後の名鉄岡崎市内線)に譲渡され、同社の1, 2となったが、同社の記録では車両が引き渡された1927年(昭和2年)7月、伊那電気鉄道松島工場製としており、譲渡の際、台枠、台車、電動機等を再用して車体を新造したものと思われる[3]。
初代2については、その後消息不明。5については1927年7月に筑摩電気鉄道に譲渡され同社のデワ2となったが、いつの間にか後述の6の履歴を受け継ぎ、1918年(大正7年)製となっていた。
6
1918年5月9日設計認可の自社松島工場製[4]の電動貨車で、荷重は5t、最大寸法は長さ23ft6in×高さ10ft9 1/2in×幅7ftで、電動機は50PS×2である。1921年(大正10年)9月15日認可により、台車をブリル21Eに交換し、電動機も36PS×2個としているが、昇圧により使用されなくなり、1932年7月12日付けで廃車となった。

ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

2009年03月08日

金華火腿(ヂンホアフオトェイ)

金華火腿(ヂンホアフオトェイ)とは、中国・浙江省の金華地区で生産されるハムの一種。日本では金華ハム(きんかハム)ともいう。イタリアのプロシュット・ディ・パルマ、スペインのハモン・セラーノと並んで世界三大ハムの1つに数えられる。

中国では金華地区のほかにも、雲南省で作られる宣威火腿(雲南ハム)、貴州省の威寧火腿、江西省の安福火腿などが有名であるが、金華火腿を名乗れるのはもちろん金華地区で作られたものだけである。材料の金華豚は小型種で、頭と尻が黒く他は白のツートンカラーをしているので、「両烏豚」と呼ばれる。穀物などは一切与えず、茶殻や白菜を発酵させたものを与えて育てるため、皮が薄く、脂肪が少ないという特徴がある(一方の雲南ではやや脂の多い豚を使う)。6ヶ月ほど飼育したものの後ろ足腿肉のみを使用し、腐敗の恐れが少ない冬季(立冬から立春まで)に仕込みを行う。天然塩で約2ヶ月間塩漬けした後、天日で2週間ほど乾燥させ、風通しの良いところでおよそ1年かけて熟成させる。熟成中は棚に1段約10枚ほど積み重ね、時々上下を返す。酸化防止のため、発酵中に滴り落ちた油を表面に塗り、出荷される。年間100万本以上が生産され、多くは香港、シンガポール、台湾などに輸出されている。

歴史
既に唐の時代には、金華地方では豚肉の塩漬けが作られていたという記録がある。12世紀には南宋の将軍が戦場へ持っていく携行保存食品とするため火腿を作らせたという。切った断面が火のように赤いことから「火腿」の名がついた。清代には朝廷にも献上され、数ある火腿の中でも最上級品とされてきた。

1915年にパナマ運河開通を記念してサンフランシスコで開かれた万国博覧会で商品部門の1等賞が与えられるなど、世界的にも高い評価を受けている。日本では1996年から加熱処理されたものの輸入が認められ、広まることとなった。

利用
材料に火を通さずに食べるという習慣がなかった中国では、スライスして生で食べるというようなことはまず無い。他の生ハムに比べて塩味もうま味も濃厚であるため、料理の味出し的な使い方が一般的である。炒め物、蒸し物などあらゆる料理に使う他、上湯(シャンタン、中国の高級スープ)の素材として欠かせないものである。家庭でも、スライスして、鶏肉、ハクサイと共に煮るだけで、上品な味のスープ料理や鍋料理を作ることができる。

中国以外では、現在では西欧の生ハムのように、オードブルや添え物として生食することも多くなってきている。
カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

分析
1991年、東京農業大学の小泉武夫教授らが金華火腿を分析し、日本発酵工学会で発表を行っている。それによると、金華火腿の水分は23.9%、蛋白質が23.7%、油脂が44.3%となっており、食肉加工食品としてはかなり水分が少ないのが特徴である。また、遊離アミノ酸が大きく増加しており、生豚肉に対してグルタミン酸が1.6倍、イノシン酸は4倍になっていた。カビを付けることで水分を抜き、発酵による作用で旨みを増すプロセスは、鰹節と同じメカニズムではないかと考察されている。

2009年02月20日

YAT安心!宇宙旅行

主人公星渡ゴローは、小さな宇宙旅行会社「YAT」のツアーに参加する。しかし、目的は単なる旅行ではなく、行方不明となった父親探しだった。しかし、その最中にゴローは誤って宇宙船を壊してしまう。そこで、宇宙船の弁償金の代わりに、YATの一員としてタダ働きをしながら、父親探しの旅をすることになる。

最初は涙あり笑いありのコミカルなギャグアニメとなっているが、物語が進むにつれて、ゴローの父親が桂についての様々な謎や次元トンネルの誕生に関わっていることが判り、シリアスになっていく。特に42話以降は、今までの基本であった一話完結ギャグ方式ではなく、完全な連続ストーリーアニメとなってこれまでの謎が明かされると共に、次から次へと起こる事件に立ち向かっていくYATメンバーとその仲間達の姿が描かれる。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

この作品の裏にあったテーマは親子の愛情であり、ゴローとダイゴ、ヤマモトと桂、カネアとアンなど主要キャラの親子関係が物語の重要な部分に多く関わっていた。

第2期
マザー次元トンネルの暴走事故から半年、母星に帰った天上院桂が戻って来た事を聞いたYATのメンバーは急いでその宇宙船へ向かう。しかし、感動の再会を果たしたのも束の間、激しい揺れに襲われ、気がついたときには見たことの無い宇宙に到着していた。そこで、ノート博士と名乗る老人と、マロンと名乗る少女に出会う。彼らは宇宙征服を企む組織に能力を狙われていた。

基本的に、第一期と同様に一話完結のコミカルなギャグアニメで様々な惑星を訪れるという点は同じである。しかし、前作は多くの伏線が張り巡らされていたり、人情話や宇宙人と対決など話のバリエーションに富んでいたのに対して、今作は毎話、悪の組織の敵と戦うといったアクションシーンが主体となっており、色々な惑星を舞台にして前作らしさを出そうとはしているが、単純な勧善懲悪のヒーローもののような話になっており、多くの人間模様を描いた前作とはやや毛色の違う作品になっている。

親子愛がテーマだった第1期に対し、今作では親離れ、子離れをテーマとしている(LDBOX1の監督と原作者の対談より)。

登場人物
YATメンバー
星渡 ゴロー(ほしわたり - )
(声優:くまいもとこ)
主人公。登場時16歳。次元トンネルの発明者「星渡ダイゴ」を父に持ち、行方不明となった父を探している。父ダイゴを探すためYATの宇宙旅行に参加した。ツアー中に老人ムサシが暴走させたYATダブ(小型宇宙船)を停止させたが、これを壊してしまい(老人ムサシのせいだと弁解はしたが、聞き入れられなかった。)、修理費弁済のためYATで働くこととなった(後に修理費は保険で出ていたことが判明する)。以来メカニックと掃除などの雑用を担当する。
元気で勇敢、優しく正義感の強い性格だが、そのために無鉄砲な行動で周囲に心配を掛けることも多い。本人は桂に好意をもっているが、桂の天然ボケのためになかなか思いが伝わらなかった。しかし第1期42話の宇宙船脱出時に告白し、想いが通じた。カニのような髪型をしており、特に2部ではそれを馬鹿にされると怒っていた。将棋がかなり得意。
天上院 桂(てんじょういん かつら)
(声優:椎名へきる)
ヒロイン。登場時18歳。YATの添乗員を務める看板娘。容姿端麗で誰にでも優しいため、誰からも好かれるが、かなりの天然ボケであり、作った料理は極めてまずい。時折腹黒い一面を見せることもある。趣味は格闘技。怪力、テレパシー通信、次元トンネル航行中の予言、誰でも瞬時に眠りにつかせる子守唄などの様々な特殊能力を持つ。
彼女が幼い時に、自分を乗せたノア星の宇宙船が事故に遭い、ペットのブッキーとともにカプセルで脱出したが、彼女とブッキーを乗せたカプセル付近にダイゴが作動させた次元トンネルの入り口が発生し、運悪く次元トンネルを通り、ダイゴの下へ。彼女を乗せたカプセルはその後ヤマモトカオルに手渡され、以来ヤマモトカオルが育て親となり、彼の娘となる。彼女の名前はヤマモトカオルが「いつか自分の下をはなれ、故郷へ帰る存在」という気持をもち、「かぐや姫」からとって“天上院 桂”と名付けた(添乗員のもじりでもある)。数々の特殊能力は彼女がノア星人であるために発揮できると考えられる。怪力に関しては、TVの方では触れられていないが、コミック版で、幼い時の宇宙船事故によって、火事場の馬鹿力が発揮され、それが平常時にも定着したと言及されている。
かなりの天然ボケであったためゴローの好意は気づかないでいたが、告白されてようやく彼の気持ちを悟る。1部最終回で、なんとかゴローの気持ちに応えたが、2部以降ではあまり進展が見られなかった。また、2部でヤマモトがチームから抜けたときからは、YATの新リーダーとして活躍した。
ヤマモト カオル
(声優:梁田清之)
宇宙旅行会社YATの社長。登場時45歳。元軍人で元宇宙海賊(義賊)の親分。宇宙海賊時代はキャプテンキッドの再来と恐れられた。普段は社員に厳しい態度で望んでいるが、情に厚い人物。娘の桂には極めてあまい。金銭欲が強いが、養女である桂を男手一つで育てあげた良き父親である。元宇宙海賊の長であったため、数々の危機的場面でも冷静な判断ができる、頼りになるキャプテンでもある。格闘技の達人であり、桂にもこれを指南した。
15年前、次元トンネル・プロトタイプの暴走事故の救援に向かい、その際に出会ったダイゴから桂とブッキーを乗せたカプセルを託され、彼女の育て親となる。2部でガノンに操られてからは、YATメンバーと敵対することになるが、彼を操るガノニウムという赤い水晶球をメンバーが砕きガノンの呪縛から解放された。15年前の次元トンネル事故のときからほとんど容姿が変わっていない(事故当時は30歳前後)。
ウッチー
(声優:鈴木勝美)
YATの宇宙パイロット。マルカン星人と地球人とのハーフで大阪弁で喋る。変身能力や風船のように膨らんで空を飛ぶなどの能力を持つ。時間にうるさく、スケジュールが遅れたり他人に侮辱されたりすると、すぐ憂鬱になってしまう。オーデン草(ホーレン草とおでんを併せたおでんの形をした草)しか食べられないとあるがおにぎりや辛いきのこを食べたりもする。
カナビー
(声優:山口勝平)
YATのナビゲーションロボット。ディスカウント機器惑星「アキバ星」出身。本人は優秀なナビゲーターのつもりでいるが、度々計算間違いをして周囲の反感を買っている。パイロットのウッチーとは何かと喧嘩しつつも良いコンビである。語尾に「?ッピ」とつける独特の話し方をする。見た目から電球と呼ばれることもある。太陽並みの明るさを持つライトや、ドリル、火炎放射器などを内蔵している。

第1期に登場
ブッキー
(声優:三田ゆう子)
桂と一緒にカプセルに入っていたペット。頭部から電撃を放出したり、生身で宇宙空間で活動できるなどの能力を持つ。いつもは「ブギー」としかしゃべらないが知能は高く、性格は辛辣で毒舌家。性別はメス。1期終盤では桂とテレパシーで会話ができるようになった。2期ではノア星に置いてきたらしく、登場しない。
星渡 ハルカ(ほしわたり - )
(声優:渡辺久美子)
ゴローの母親。ダイゴが行方不明になってからは、トラックのドライバーをしながらゴローを一人で育てる。昔は痩せていたが、ダイゴが行方不明になってからのストレスのためか現在はかなり恰幅が良い。
星渡 ダイゴ(ほしわたり - )
(声優:小杉十郎太)
ゴローの父親。次元トンネルの生みの親であり、ダイゴシステムの開発者。次元トンネル・プロトタイプの大事故時に行方不明になっていた。次元トンネルの事故では、事故を止めようとして次元の狭間に巻き込まれ、外では15年間だったが、時間の流れの違いのため20日間分しか時間が経たないままであり、ゴローたちと比べるとほとんど年はとっていない。
藤吉(とうきち)、つゆ子
(声優:納谷六朗、つゆ子は三田ゆう子)
YATツアーの常連客の老夫婦。二人一緒にいつもツアーに参加している。行く先々で問題が起こるYATのツアーに対しても「いつものこと」と言ってあまり気にしておらず、むしろ楽しんでいる様子。記念すべきYAT初ツアーの参加者でもある。
キャプテン・ロック
(声優:矢尾一樹)
ヤマモトの元子分の宇宙海賊。現在のシャレコベック号の艦長。ナナコやハチベーと共に自前の楽曲を製作して、襲撃した宇宙船の乗客にそれを配っている。本人はヘヴィメタルロックのつもりらしいが、周囲からは演歌と言われ(実際曲は演歌そのもの)度々落ち込んでいる。しかし演歌なので老人たちからの受けはそこそこ良い。
ナナコ
(声優:永島由子)
ヤマモトの元子分で、ロックの仲間の宇宙海賊。シャレコベック号の砲手で大阪弁を話す。ブッキーに好かれている。
ハチベー
(声優:長島雄一)
ヤマモトの元子分で、ロックの仲間の宇宙海賊。生粋のメカニックで、エンジン等に名前までつけて可愛がっている。
カネア・マリーゴールド
(声優:こおろぎさとみ)
宇宙旅行最大手コスモロード社の社長令嬢。社長令嬢らしいわがまま娘で、かつ母親譲りの行動力や気の強さも持ち合わせている。金で何でも解決しようとする性格で、そのためにゴローを怒らせ平手打ちをされたが、それをきっかけにゴローに猛烈な好意を抱き、気を引こうと度々アタックを仕掛け、ゴローやダニエルを振り回している。またゴローが想いを寄せている桂を良く思っておらず、度々突っかかる。
アン・マリーゴールド
(声優:田中敦子)
コスモロード社の現社長でカネアの母親。コスモロード社を一代で築き上げた経営手腕を持つが、他社の乗っ取りや異を唱えた部下を即時クビにするなどの強引さから敵も多い。
伝説の宇宙海賊キャプテンキッドの孫娘で、祖父の隠した財宝を探すためヤマモト一味に加わりNo'2まで上り詰めるも、次元トンネル・プロトタイプの事故のドサクサに紛れてダイゴシステムの設計図を手に入れ一味を抜ける。その後事業の後継者であったドンズと出会い結ばれ、彼の遺志を継いでマザー次元トンネルの完成を目指す。
ドンズ・マリーゴールド
(声優:宮本充)
カネアの父で、アンが社長に就任する前のコスモロード社の社長だった人物。親友のダイゴとともに次元トンネルを設計したが、次元トンネル・プロトタイプ事故の際に設計図がダイゴと共に行方不明になり、半ば開発を諦めていた。その後次元トンネル設計図を持ってアンが彼の元を訪ねてきたため彼女と共に次元トンネル開発を再開するが、最初の次元トンネル完成を前にして志半ばで死んでしまう。
ダニエル
(声優:高木渉)
アン・マリーゴールドの秘書で、カネアのお目付け役。将来はカネアと結婚してコスモロード社を継ぐという逆玉の輿をねらっているが、当のカネアにはまったく相手にされていない。
MAM(マム)
(声優:三田ゆう子)
クイーン・マリー・ゴールド号に搭載されているメインコンピュータ。カネアの命令に絶対服従するように設計され、カネアが幼い頃から彼女の世話をしてきた。
ムサシ
(声優:北村弘一(故人))
ゴールド星に住む老人。ゴローが持っていた父親の写真に一緒に写っていたため彼の行方を知る人物かと思われたが、後にただ他人の記念写真に写るのが趣味だったため写真に写っていたのは偶然ということが分かった。
ドリス・アンダーソン
(声優:平松晶子)
コスモロード社の次元トンネル修理担当主任。次元トンネルに関しては誰よりも詳しいと自負している。そのため次元トンネルの基幹システムであるダイゴシステムが、仕組みも分からぬまま使われ続けていることに不安を感じている。

第2期に登場
モニカ・フランソワーズ
(声優:増田ゆき)
桂の代わりに添乗員を勤めているアルバイト。あと一ヶ月でバイトをやめるはずだったところを巻き込まれた。気が強く怒りっぽい性格で、YATメンバー(特にヤマモト)とは馬が合わず文句ばかり言っているが、態度は変わらずとも徐々に打ち解けるようになる。虫が苦手。
マロン
(声優:丹下桜)
テレポーテーションの超能力を持った獣人の少女。体を丸めることができる。氷付けで宇宙空間を漂っていたところをノート博士に拾われ助手となり、素性は謎に包まれている。瞬間移動マシンがないとテレポーテーションは自分以外及び人以外及び自分より軽いものしかできない。
ノート博士
(声優:麻生智久)
宇宙でその名を知らぬ者はいない獣人の科学者(ただし遠い宇宙から来たYATメンバーは知らない)。第三の手のように動く尻尾を持つ。お調子者で間抜けでいたずら好きな性格だが、才能と人格は確かなものを持つ。マロンの故郷を探すために瞬間移動マシンを発明するが、それに目を付けたガノンに連れ去られ、呼び寄せられていたYATメンバーにマロンを託す。
ガノン
(声優:若本規夫)
ガノン帝国の長である大きなナマズの怪物。非常にユニークな言い回しを多用する。ガノニウムを利用して、さまざまな能力を使うことが出来る。
バラス
(声優:飛田展男)
オリハルコンの剣を持つサメ系宇宙人。かなりのナルシスト。侍のような口調で話す。三バカトリオの一人。オリハルコンを手放すと途端に弱気になる。最終回OPで自ら三バカといっている。
ドツーク
(声優:真柴摩利)
怪力重視の女。フグ系宇宙人。宇宙一の怪力と豪語するが、容姿及びおつむは悪い。顔とは裏腹にお嬢様のような口調を使う。同等の怪力を持つ桂をライバル視する。三バカトリオの一人。
サグール
(声優:岡野浩介)
策士家でナルシストなアンコウ系宇宙人。宇宙一の頭脳を持つと豪語しているが、考える作戦は姑息なものばかりで、いつも失敗している。たいして頭は良くなく体力もない。三バカトリオの一人。
スルメ
(声優:梅津秀行)
科学主任。ノート博士にこき使われている。名前を度々間違えられる。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

その他(第1,2期)
大川透、菅原淳一、宇垣秀成、笹本優子、高田由美、夏樹リオ、矢島晶子、遠近孝一、横尾博之、多田野曜平、田辺静恵、西村ちなみ、河合義雄、関口英司、田原アルノ、秋元羊介、茶風林、荒川太郎、定岡小百合、小野英昭、太田真一郎、星野充昭、小野健一、高瀬右光、小上裕通、石井康嗣、西原久美子、井上喜久子、塚田正昭、松尾まつお、藤原啓治、竹若拓磨、岩永哲哉、保志総一朗、亀山助清、奥島和美、芳野美樹、藤原美央子、伊藤健太郎、堀之紀、瀧本富士子、渡辺美佐、中村秀利、湯屋敦子、龍田直樹、峰恵研、真殿光昭、三木眞一郎、坂本千夏、黒田由美、津村まこと、白鳥由里、江原正士、上田祐司、二又一成、折笠愛、坂東尚樹、島香裕、ならはしみき、竹若拓磨、戸部公爾、鈴木琢磨、屋良有作、小形満、千葉繁、大木民夫、石田彰、天田真人、吉野裕行、肝付兼太、吉田孝、堀内賢雄、田中真弓、水田わさび、宗矢樹頼

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

用語
YAT(ヤット)
諸々の事情でゴローが勤めることになった弱小宇宙旅行会社。YATとは公式では「Yamamoto Anshin Travel」の略とされているが、アニメ版の画面中の描写(第一話など)や一部設定資料では「Yamamoto Astoro Travel」となっている。社長であるヤマモトカオルが桂の両親を探すために起業した。ツアーを行うたびにほぼ毎回何らかのトラブルに見舞われておりその度に客からの抗議の声が上がるが、逆にそのスリルを目当てにしたリピーターも存在する。
YATダヴ
YATの宇宙船。主に近距離移動に使われており、宇宙港に入港する時や惑星に降下する時に用いられる。外見はボンネットがついた観光バスのような格好をしている。
YATジャンボ
YATダブの母船。普段は軌道上に待機しており、YATダブとドッキングして長距離移動時(次元トンネル利用時など)に使われる。1期・2期共に終盤では大破している。
コスモロード社
業界最大手の宇宙旅行会社。次元トンネルネットワーク事業を独占し、強引な手法で現在の規模にまで成長してきた。現社長はアン・マリーゴールド。
クイーン・マリー・ゴールド号(QMG号)
コスモロード社の社長令嬢、カネア・マリーゴールドの大型クルージング船。MAMと呼ばれるコンピュータによって制御されており、非常に豪華な造りとなっている。
シャレコベック号
ヤマモトカオルが宇宙海賊時代に乗っていた宇宙船。ヤマモトが引退した後はキャプテン・ロックが後を引き継いで船長になっている。あちこちガタが来ているが、ハイパードライブ装置やメガキャノン砲などを搭載している。
次元トンネル(じげん - )
膨大な反重力エネルギーを使い次元に穴を開け別次元を通ることによって、ハイパードライブ装置を使わずに銀河のさまざまな場所への移動を可能にした交通ネットワーク。現在の高速道路のように商業目的から観光目的まで多目的で利用されている。ハイパードライブでは若干のウラシマ効果が生じるとされるが、次元トンネルを使えばウラシマ効果が起こらない上に、ハイパードライブ装置を搭載していない宇宙船でも容易に利用できることから、急速に普及した。
ダイゴシステム
星渡ダイゴが開発した、次元トンネルの根幹を成すシステム。次元に穴を開けるための膨大な反重力エネルギーをコントロールするのに必要で、次元トンネルを作動させる上でなくてはならないものとなっている。しかし設計図はあるもののどのような仕組みで反重力エネルギーを制御しているのかは不明であり、原理も分からないままに次元トンネルが建造され続けていることに不安を感じる者もいる。
瞬間移動マシン
ノート博士が発明したマシン。マロンのテレポーテーションの力を増幅し、宇宙船を好きな場所へ移動させることができる。精度はマロンの心の状態に左右され、不安や迷いがあると失敗し、それが原因となりYATジャンボが呼び寄せられた。
ガノン帝国
全宇宙を支配しようとする悪の帝国。ナマズの首星雲のデスガノンに本拠地を置く。
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放送リスト
第1期
第1話 YATにおまかせ!(1996/10/05)  
第2話 宇宙の穴場!温泉ツアー(1996/10/12) 
第3話 氷の星で大ピンチ!(1996/10/19)  
第4話 桂さんの大予言!(1996/10/26) 
第5話 宇宙一のお嬢様!(1996/11/02) 
第6話 コスモロードで大出世!?(1996/11/09)  
第7話 サバイバル!野生のカネア(1996/11/16) 
第8話 うまさ爆発!グルメツアー(1996/11/23) 
第9話 いかんともしがたい二人!(1996/11/30) 
第10話 宇宙海賊ロック参上!(1996/12/07) 
第11話 闘魂!宇宙王者決定戦(1996/12/14) 
第12話 恐怖の惑星ダイキョクテン!(1996/12/21)  
第13話 ビックリ!YATを知る男?(1996/12/28)  
第14話 超特急!プリンセスを運べ(1997/01/11)  
第15話 ロック救出大作戦!(1997/01/18)  
第16話 ミイラれたヤマモト社長!?(1997/01/25) 
第17話 予備校生涙の特訓ツアー!(1997/02/01) 
第18話 YATの休日!(1997/02/08)  
第19話 再会!オヤジあらわる?(1997/02/15) 
第20話 キャプテンキッドの秘宝!(1997/02/22)
第21話 大ショック!社長つかまる(1997/03/01)
第22話 8人のやさしい客たち!(1997/03/08) 
第23話 大暴走!クイーンマリーゴールド号(1997/03/15) 
第24話 モーレツ!かあちゃん珍道中(1997/03/22) 
第25話 まぼろしのオヤジ!(1997/03/29)  
第26話 われて砕けて謎を解け!(1997/04/05)  
第27話 失恋ツアーで絶体絶命!?(1997/04/12)  
第28話 カネアの家出!(1997/04/19)  
第29話 ゴローとコゴロー!(1997/04/26) 
第30話 麗しのカオルちゃん!?(1997/05/03)  
第31話 おしゃべりブッキー!(1997/05/10)
第32話 カナビーの初恋!(1997/05/17) 
第33話 さらわれたカネア!?(1997/05/24) 
第34話 ウッチーのお見合い!(1997/05/31)  
第35話 凶悪宇宙人をやっつけろ!(1997/06/07)  
第36話 次元トンネルSOS!(1997/06/14)  
第37話 アン・マリーゴールドの野望!(1997/06/21)  
第38話 ダニエルのラブラブ大作戦!?(1997/06/28)  
第39話 桂さんを取り返せ!(1997/07/05)  
第40話 海賊をやめたキャプテン・ロック!(1997/07/12)  
第41話 常連客よさようなら!(1997/07/19)
第42話 大脱出!燃える宇宙船(1997/07/26)  
第43話 謎の古代遺跡!(1997/08/02)  
第44話 昔、むかし、宇宙で…!(1997/08/16) 
第45話 開通!マザー次元トンネル(1997/08/23) 
第46話 時を越えた出会い!(1997/08/30) 
第47話 15年目の真実!(1997/08/30)  
第48話 暴走マザーをくい止めろ!(1997/09/13)  
第49話 捨て身のマザー停止作戦!(1997/09/20) 
第50話 しばしのおわかれ!(1997/09/27)

第2期
第1話 新たなる船出!(1998/04/11)
第2話 マロンを守れ!(1998/04/18)
第3話 食料さがしで大ピンチ!(1998/04/25)
第4話 モニカ小さくなる!(1998/05/02)
第5話 さよならマロン!?(1996/05/09)
第6話 YATダブを取り返せ!(1998/05/16)
第7話 とらわれた3人!(1998/05/23)
第8話 こんな夜のはなし!(1998/05/30)
第9話 みんなカタマール!?(1998/06/06)
第10話 恋するモニカ!?(1998/06/13)
第11話 小さな仲間たち!(1998/06/20)
第12話 決戦!YATジャンボ(1998/06/27)
第13話 帰ってきて社長!(1998/07/04)
第14話 敵になった社長!?(1998/07/11)
第15話 リーダーは誰だ!?(1998/07/18)
第16話 謎のピラミッド!(1998/07/25)
第17話 底ぬけ温泉大騒動!(1998/08/01)
第18話 惑星モルファスの女王!(1998/08/08)
第19話 三つのお願い!(1998/08/22)
第20話 帝王ガノンの陰謀!(1998/08/29)
第21話 YATジャンボ大爆破!?(1998/09/05)
第22話 YAT絶体絶命!(1998/09/12)
第23話 反撃のとき!(1998/09/19)
第24話 最後の戦い!(1998/09/26)
第25話 故郷をめざして!(1998/10/03)

2009年02月04日

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国には庶流があった。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男源義光(新羅三郎義光)と位置づけられている。河内源氏を称した源頼信は長元2年(1029年)に甲斐守に任官し、頼義、義光と継承される。頼義までは在京で現地へは赴いていないと考えられているが、義光は初めて甲斐へ着任し土着した人物とも言われ、山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。1981年(昭和56年)の発掘調査では出土遺物が確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠は発見されず、また古代甲斐における国衙が八代郡であることからも義光の入国は疑問視されている。また、甲斐守任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。

現在では昭和43年に志田諒一が『勝田市史』において発祥を義光の子である源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)において武田姓を名乗ったとする説が提唱され、以来定説として支持されている。大治5年(1130年)に義清の嫡男清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国へ配流されたという。配流先は巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)のであるとされているが、現在の昭和町西条とも考えられている。

義清父子は八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出し、子孫は甲府盆地の各地へ土着して諸氏が分出した。清光は逸見(へみ)姓を名乗り武田を称した形跡は無いが、義清の孫にあたる信義は元服の際に武田八幡宮において武田を称したという。鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命された。その子の信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築いた。

河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代にはわずかに庶家が残った。

家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。

甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の本流であり、4代武田信義(源信義)は以仁王から令旨を受け取り挙兵する。当初は独立的立場を取っていたが、富士川の合戦を期に源頼朝に協力して戦功をあげ駿河守護を任ぜられる。その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し、弟や息子達の多くが死に追いやられた。信義の五男信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。

鎌倉時代後期に後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱では鎌倉の北条氏に従い笠置山を攻め、幕府滅亡後の1335年に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝時代には安芸守護であった武田信武が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、石和系武田氏に代わり甲斐国守護となった。1416年に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻す(上杉禅秀の乱)と、武田信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、京都の幕府の介入で禅秀は滅亡。信満は鎌倉府から討伐を受け、自害する。後継の甲斐守護職は、逸見氏との甲斐源氏同士の内紛の末、幕府の追及を恐れて高野山で出家した信満の弟である武田信元が任じられる。その後は鎌倉府と幕府の対立から鎌倉府に服したが、6代将軍足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。

18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉氏と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。

1572年、15代将軍足利義昭の要請に応じて上洛を開始したが、その途上、信玄が病死したため武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有したが、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。

信玄の次男・竜芳(海野信親)は盲目で出家していたため難を逃れ、竜芳の子の武田信道が大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流される不幸もあったが、その子信正の代で許されて1700年に幕臣となり高家として仕えた。1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。信玄五男・仁科盛信の長男信基と次男信貞が徳川旗本として仕え、2系とも現在も存続している(信貞は武田に復姓している)。信玄七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕えた。信玄の弟・川窪信実の子信俊は家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。

甲斐武田氏歴代当主
源義光(源頼義の子、源義家の弟)
源義清(源義光の子)
源清光(源義清の子)
武田信義(源清光の子)
武田信光(武田信義の子)
武田信政(武田信光の子)
武田信時(武田信政の子)
武田時綱(武田信時の子)
武田信宗(武田時綱の子)
武田信武(武田信宗の子)
武田信成(武田信武の子)
武田信春(武田信成の子)
武田信満(武田信春の子)
武田信元(武田信春の子、穴山満春)
武田信高(武田信長(上総武田氏)の子、信元の養子)
武田信重(武田信満の子)
武田信守(武田信重の子)
武田信昌(武田信守の子)
武田信縄(武田信昌の子)
油川信恵(武田信昌の子、武田信縄の弟)
武田信虎(武田信縄の子)
武田晴信(信玄)(武田信虎の子)
武田信繁(武田信虎の子、武田信玄の弟)
武田信廉(武田信虎の子、武田信玄の弟)
武田勝頼(武田信玄の子)
武田義信(武田信玄の子、武田勝頼の兄)
仁科盛信(武田信玄の子、武田勝頼の弟)
武田信勝(武田勝頼の子)
武田信治(武田信玄の孫、武田勝頼の甥、穴山信治)
武田信吉(徳川家康の子)
(穴山武田氏)
武田信治(穴山信君の子)
(水戸藩武田氏)
武田信吉(徳川家康の子)

(伊豆武田氏)
武田信道(信玄次男の海野信親(龍芳)の子)
武田信正(武田信道(道快)の子)
(高家武田氏)
武田信興(武田信正の子)
武田信安(武田信興の子)
武田信明(大和郡山藩2代藩主柳沢信鴻の子)
武田護信(武田信明の子)
武田信典(松平頼亮の子)
武田信之(柳沢保光の子)
武田崇信(武田信典の子)
武田信任(武田崇信の養子)
武田要子(武田信任の娘)
武田信保(柳沢保申の子)
武田昌信(武田信保の子)
武田邦信(武田昌信の子)
武田英信(武田邦信の子、現当主)

戦国甲斐武田氏(信玄・勝頼時代)の主要家臣
武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。江戸時代に記された軍記物である『甲陽軍鑑』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関して家臣団の詳細が記され、江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。『軍鑑』は明治期の史学会において田中義成により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかったが、近年は酒井憲二による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。

一門
武田信繁
武田信廉
一条信龍
河窪信実
海野信親
仁科盛信
葛山信貞
武田信豊
穴山信君
譜代家臣
板垣信方
甘利虎泰
飯富虎昌
諸角虎定
馬場信房
高坂昌信
山県昌景
内藤昌豊
秋山信友
浅利信種
原昌胤
土屋昌次
三枝守友
曽根昌世
小山田信有
小山田信有
小山田信茂
駒井政武
駒井昌直
他国衆
真田幸隆
真田信綱
真田昌輝
真田昌幸
小畠虎盛
小幡昌盛
小幡憲重
小幡信貞
原虎胤
横田高松
多田満頼
木曾義康
木曾義昌
山本勘助

戦国甲斐武田氏の城
居城
石和館
躑躅ヶ崎館
新府城
主な支城
上原城
小諸城
高遠城
大島城
戸石城
海津城
江尻城
箕輪城

戦国甲斐武田氏の戦
佐久攻め
上田原の戦い
戸石城攻防戦
川中島の戦い
塩尻峠の戦い
三増峠の戦い
駿府城攻略戦
三方ヶ原の戦い
野田城の戦い
長篠の戦い
天目山の戦い

武田氏研究と武田氏関係文書
甲斐武田氏では武田信玄が江戸時代から近代にかけて『甲陽軍鑑』の流行により一般においても広く知られ、地元においては郷土史の象徴的人物と位置づけられいった。明治期には郷土史家により勤皇家や郷土の英雄として信玄像を位置づけることを目的とする研究や、戦史中心の研究が行われていた。昭和初年には『甲斐史料集成』や『甲斐叢書』が刊行され、山梨郷土研究会も発足し実証的研究がスタートした。

戦後には昭和30年代から研究が活発化し、信玄期以前においても『吾妻鏡』の史料批判による鎌倉時代の研究や、南北朝・室町期の研究も行われた。信玄期においては奥野高広や磯貝正義、上野晴朗らの実証的評伝が発表された。

また、『勝山記』など新史料も発見や史料刊行が進み、昭和62年には武田氏研究会が発足する。武田氏館など考古学的な発掘調査も進み、信玄期以外にも前代の信虎期や後代の勝頼期へも視点が向けられるようになった。現在では社会経済史的視点からの研究や戦国大名武田氏の権力構造の解明、家臣団の個別研究のほか、財政や治水事業、軍事や外交、交通や都市問題、商職人支配や郷村支配、宗教など各分野における実証的研究や民俗学的アプローチなど研究の地平が広っている。

一方で、網野善彦はこうした武田氏や甲斐源氏中心の研究に対して甲斐中世史において他氏族の果たした役割を強調し、武田氏以外の氏族研究の必要性を主張している。

また、武田氏研究と平行して武田氏関係文書の編纂も行われている。武田氏は宗家が滅亡しているため家伝文書が散逸しており写本や影印本のみで知られるものも多いが、現在では3300点余りの文書が知られている。古くは江戸時代に幕府が編纂した『諸州古文書』において甲斐の古文書調査が行われており、甲斐国の総合地誌として編纂された『甲斐国志』では武田氏関係の記述は『甲陽軍鑑』がベースとなっているが編纂に伴う古文書調査は行われており、これらに収録されている文書には現在原本が確認できないものも多く含まれている。

実証的な武田氏研究が本格化した昭和戦後期には武田氏関係文書集の刊行も行われ、1966年には『甲府市史』の編纂に際して『甲府市史史料目録』に「甲斐武田氏文書目録」が含まれ、1969年には荻野三七彦・柴辻俊六により『新編甲州古文書』が刊行された。その後も新出文書の増加や無年号文書の検討作業が進捗し『山梨県史』編纂事業のスタートに伴い総合的な史料調査も行われ、現在では柴辻俊六・黒田基樹『戦国遺文』武田氏編や『山梨県史』資料編中世において集成されている。

武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少ないことが指摘されている。また、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書などは少なく、偽文書が多いことも指摘されている。

安芸武田氏
安芸武田氏は5代武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸守護に任じられたことから始まる。任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。南北朝時代に10代武田信武が足利尊氏に属して戦功を上げた結果、甲斐国と安芸国の守護に任命され、信武次男・武田氏信が安芸守護として分家した。この氏信が安芸武田氏の初代となる。しかし氏信は1368年(応安元年)に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護職は今川氏や細川氏等の足利一門が担ったが、安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護として存続している。

大内氏とは対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方について参戦、以降戦国時代まで尼子氏らと組んで大内氏に対抗したが、安芸武田氏9代武田信実の時代、1541年(天文10年)6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重の子にあたり安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。

安芸武田氏歴代当主
武田氏信(甲斐武田氏10代武田信武の子)
武田信在(武田氏信の子)
武田信守(武田信在の子)
武田信繁(武田信在の子)
武田信賢(武田信繁の子で若狭武田二代)
武田元綱(武田信繁の子)
武田元繁(武田元綱の子)
武田光和(武田元繁の子)
武田信実(若狭武田氏6代武田元光の子で武田光和の養子)

若狭武田氏
鎌倉時代に石和五郎信光が若狭国大飯郡に源力木山城を築く。若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に本拠地を移した。信栄のころは、まだ遠敷郡小浜(現・小浜市)ではなく、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている。信栄は1441年(永享13年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いだ。

武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。3代国信以降は若狭国、丹後国の両国を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵するが、在京期間のほうが長くなったこともあり、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで勢力を弱め、8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行する。1566年(永禄9年)8月には姉婿の義統を頼って入国した足利義昭を庇護するが、家中の混乱を見かねた義昭一行は早々に越前朝倉氏を頼って出国し、若狭武田氏も2年後の1568年(永禄11年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。

最後の当主9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。しかし信長より若狭を任されたのは丹羽長秀だったので元明は大飯郡の石山3000石のみの領有を許されただけだった。1582年(天正10年)の本能寺の変では旧領回復を狙って丹羽長秀の居城佐和山城を陥落させ明智光秀に加担するも、光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。

若狭武田氏歴代当主
武田信栄(武田信繁の子)
武田信賢(武田信繁の子)
武田国信(武田信繁の子)
武田信親(武田国信の子)
武田元信(武田国信の子)
武田元光(武田元信の子)
武田信豊(武田元光の子)
武田義統(武田信豊の子)
武田元明(武田義統の子)

上総武田氏
上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子・信高の死後、嫡流は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では信玄の三男・西保信之と同一人物とされ、甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったという説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として徹底した反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に関東平定中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害して果て、同氏は滅亡した。

一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信保は古河公方足利政氏の子・義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。信保の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。このため、信隆は北条氏綱の元へと亡命することとなった。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が信隆の後を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。だが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服し、豊臣氏の関東平定によって所領を奪われて那須氏のもとへ亡命、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。

なお、嫡流は武田豊信の子・氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、郷士として土着した。そしてそのまま江戸時代を乗り切り、現在も血筋が続いている。分家のその後は不明である。

上総武田氏歴代当主(付記: 真里谷氏)
武田信長(武田信満の子)
武田信高(武田信長の子)
武田道信(武田信高の長子)
武田宗信(武田道信の子)
武田吉信(武田宗信の子)
武田清信(武田吉信の子)
武田豊信(武田清信の子、一説には武田晴信(信玄)の子)
真里谷氏
真里谷信興(武田信高の子)
真里谷信勝(真里谷信興の子)
真里谷信保(真里谷信勝の子)
真里谷信隆(真里谷信保の庶長子)
真里谷信応(真里谷信保の嫡子)
真里谷信政(真里谷信隆の子、里見氏に滅ぼされる)
真里谷信高(真里谷信応の子、里見氏によって擁立か?)

その他の武田氏

因幡の武田氏
因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。1545年、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗する様な姿勢を見せる。1563年(永禄6年)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同年4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。1573年(天正元年)、出雲の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中鹿之介が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。1578年(天正6年)、美作の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の許に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の許に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石を以って召抱えたとされる。事実、明治元年(1868年)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。

武田国信(豊前守)
武田高信(嫡男)
武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)

常陸の武田氏
常陸の武田氏(1)
源義光の子・義清が常陸国那珂郡武田郷より起こる。冒頭を参照。

常陸の武田氏(2)
1392年(明徳3年)、甲斐武田家12代信春の子・武田信久が甲斐国より常陸国北浦に下り居城を構え、領地を治める傍ら剣術の一流を築いた。武田顕輔、尚徳が水戸藩に仕え、師範となり、家伝剣術の他、北辰一刀流剣術、鹿島新当流、天真正伝香取神道流を修め武田輔長の伝えた。武田輔長はこれを武田新当流として確立。今日に至る。

常陸の武田氏(3)
戦国時代まで甲斐武田氏の庶流にして守護代であった跡部氏は、武田氏滅亡の折、主家に叛いて後に徳川氏の家臣となる。その後、子孫は水戸藩(水戸徳川家)に仕えたが、幕末時に主家に叛いた跡部姓を嫌った耕雲斎が主君徳川斉昭に願い出て、本姓である武田姓に復姓を果たした。

武田正生(贈正四位。水戸藩士 跡部正続の子。本家の跡部正房の養子となる。)
武田魁介(正生の子)

その他
相模国には戦国時代には北条氏に従った武田氏がいた。上総武田氏の真里谷信隆が北条氏を頼ったのは、相模の武田氏が仲介したからだとされる。その他では土佐国の香宗我部氏は武田氏の一族であったとされる。(武田菱の陣羽織が現存している。)

武田菱
武田菱は、甲州武田家の家紋である。由緒書きによると、武田家の家宝「楯無」の鎧は神功皇后が三韓征伐の時に住吉大社に武運長久を祈念し得た鎧であり、ゆえあって甲州武田家の所有するところとなった(無論三韓征伐云々の伝記は時代的に合わないので史実ではない)。その鎧に付いていた「花菱」の文様を武田氏の定紋としたという。武田氏の遺品や肖像に残る家紋は皆この「花菱」である。戦国時代軍旗に「花菱」を多数描くのが煩雑なため、菱形を4つ合わせた「四つ割菱」という略紋が生まれたという。ただし由来には諸説あり武田の田の字を元にデザインされたとも言われている。江戸時代以降、甲陽流軍学者が信玄の肖像画を珍重し、その中や浮世絵などに盛んに「四つ割菱」の図柄が描かれてしまったために、「四つ割菱」が定紋であるかと思われがちであるが本来の紋は「花菱」である。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。

系譜
宗家(甲斐武田氏)
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子

            源義光
     ┏━━┳━━╋━━━┳━━━┳━━┓
義業 実光 義清 平賀盛義 親義 祐義
  ┣━━━┓
            清光 方原師光
  ┏━━━━┳━━━━╋━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
逸見光長 加賀美遠光 武田信義 安田義定 平井清隆 河内長義 浅利義遠 八代信清 利見義氏  
            ┣━━━┳━━━━┳━━━┓
          信光 一条忠頼 板垣兼信 有義  
    ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┓
  黒坂朝信 信忠  信政 一条信長 岩崎信隆 早川信平 間淵信基 殖木信快 光信 
            ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
            信時 八代政綱 駒井信盛 下条政長 安芸信泰 若狭信綱
            ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
            時綱 時頼 政頼 貞頼 信実 時平 光時 
            ┃
            信宗 
            ┃
            信武
            ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━┳━━━━┓
            信成 大井信明 氏信(安芸) 山県公信 穴山義武
            ┣━━┳━━━┳━━━━┳━━━━┓                                        
            信春 基信 下条武春 栗原武続 布施満春  
            ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
            信満 吉田成春 穴山春信 下条信継 市部信久 穴山満春
            ┣━━┳━━━━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
            信重 信長(上総) 江草信康 今井信景 巨勢信賢 倉科信広 山宮信安 今井信経 
            ┣━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━━┓
            信守 穴山信介 小佐手永信 八代基経 下曽根賢信 金丸光重
            ┃
            信昌
            ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
            信縄 葛山信国 油川信恵 岩手縄美 松尾信賢 諸角昌清
            ┣━━━┳━━━━┓
            信虎 勝沼信友 桜井信貞
            ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━━┳━━━━┳━━━━━━━━┳━━━┓
            晴信(信玄) 信繁 信基 信廉 松尾信是 河窪信実(旗本) 一条信龍 信友
            ┣━━━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━━━┳━━━━┓
            義信  海野竜芳 信之 勝頼 仁科盛信 葛山信貞 安田信清
        (熊本藩家臣)(武田信親)   ┃  (旗本)     (米沢藩家臣)
                 ┃     ┣━━┓     
                武田信道(道快)信勝 勝親
                 ┃      |          
                 信正     信治(穴山信治)
                 ┃      |          
                 信興     信吉(松平信吉)
                 ┃
                  信安
                 |
                 信明
                 ┃
                 護信
                 |
                 信典(高家肝煎)
                 |━━━━━━━━━┓
                 信之(高家肝煎)  崇信
                 |━━━━┳━━━━┳━━━━┓
             崇信  柳生俊順 柳生俊益 柳沢光邦
                  |
          信任
         ┃
           要子=信保
         ┃
           昌信
         ┃
           邦信
         ┃
           英信(現・武田宗家当主)

安芸・若狭武田氏
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子

安芸武田氏
            武田氏信
             ┃
              信在
             ┃
              信守
             ┃
              信繁
             ┣━━┳━━┳━━┓
             信栄 信賢 国信 元綱
                |━━━┓
             元綱 蠣崎信広
                ┃
             元繁
                ┣━━┓
                光和 下野
                |  ┃
             信実 信重
                   ┃
                 安国寺恵瓊
若狭武田氏
            武田信繁
             ┣━━┳━━┳━━┓
             信栄 信賢 国信 元綱
                   ┣━━┳━━┳──────┐
                   信親 元信 重晴 蠣崎信広
                      ┣━━┳━━┓
                     元光 元度 元是
                      ┣━━┳━━━━━━━━┓
                     信豊 信実      内藤政信
                      ┣━━┳━━┳━━┓  ┣━━┓
                     義統 信由 信景 信方 重政 直則
                      ┃           ┣━━┓
                     元明          政高 直治                            

上総・真里谷武田氏
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子

上総武田氏
           武田信長
            ┣━━━━━━━━━━━┳━━┓
            信高          信武 信房
            ┣━━━┳━━━┓   ┃  ┃
          真里谷信興 道信 佐瀬国信 氏信 武定             
                ┃       ┃  ┣━━┓
                宗信       義房 真勝 信恒
                ┣━━━┓         ┃
                吉信 白井信方(上総白井氏)弘恒
                ┃             ┃
                清信            弘真
                |             ┃
                豊信            因恒
                ┃             ┃
                氏信            貞恒
                ┃             ┃
                成信            利恒
真里谷武田氏
          真里谷信興
            ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
            信勝                信清(房総管領)
            ┣━━━━━┳━━━━━┳━━┓  ┃
            信保    信助    信次 信秋 直信
            ┣━━┓  ┣━━┓  ┃  ┃  ┃
            信隆 信応 義房 義信 信茂 義信 朝信(房総管領)
            |━━┓           ┃  
            信応 信政          信清 
            |━━┓             
            信政 信高
            |━━┓             
            信高 信光
            ┣━━┓             
            勝房 信経
            ┣━━┓             
            勝信 信相
               ┃             
               信秋 

河窪武田家
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子、※は幕府御家人。

           河窪信実
            ┃
            信俊
            ┣━━┳━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━┳━━━┓
            信雄 信世※ 信房(紀州藩家臣)信宅(水戸藩家臣)信次※ 信通※ 信本※
            ┣━━━━━━━━━━━━━━┓                 ┃
           武田信貞           武田信安               善太郎
            ┣━━━┳━━━━┓     |
            信令 堀田通矩 河窪信慈※   信常
            ┣━━┓     |     |
            信喜 信胤    信積     信温
            |        |     ┣━━━┓
            信胤       信友     信尹 松平正職
            ┃        ┃     ┃
            信村   信睦     信房 
            ┣━━┓     ┃     |
            信親 信誼    信順     信誼
            ┃        ┃     ┃
            信徳   賢三   与左衛門
            ┃              ┃
            信禄             晴之丞
            ┃              
            信敬            
分家
           河窪信世
            ┣━━┓
            信恒 信亮
               ┣━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
               武田信常 信有            信近※ 堀秀興
                    ┣━━┳━━━┳━━━┓  ┃
                    信安 信恒 武田信敦 信昆 信易
                    |             |
                    信昆            信貞
                    ┃             |
                    信軌           寛右衛門
                    ┃             ┃
                   七郎右衛門          七郎兵衛
                    ┃             |
                    鍬太郎           寛一郎
            ┏━━━━━━━━━━━━━┓
           河窪信次          河窪信通
            ┃             ┣━━┓
           武田奉信           信幸 信良
            ┣━━┳━━┓          |
            信全 信親 信精         信明
            |                ┃
            信精             信博
            |                ┣━━┓
            信敦               信明 信敬
            |                ┃
            信至             信政
            ┃                ┃
            信成               彦太郎
            ┃                ┃
           金十郎              鉄太郎
            ┃                ┃
           玄九郎              鎮之助
                             ┃
                             敬子=勇次郎
                             ┃
                             章(現当主)

仁科・油川武田家
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子、※は幕府御家人。

仁科家
           仁科盛信
            ┣━━━┳━━━┳━━┓
            信基 油川信貞 信正 信久 
            ┃       ┃  ┃
            盛忠      信峰 信衡
            ┃       ┃  ┃
            信照      林信国 信道※
            ┃          ┃
            盛晴         信勝
            ┃          ┣━━┓
            盛朝         信貞 信乗
            ┃          |
            忠盛         信乗
            ┃          |
            高信         信方
            ┃          |
            盛次         信貫
            ┃          |
            信真         信邦
            ┃          |
            定盛         信任
            ┃          |
            盛照         鉱造
            ┃          
            信国         
            ┃          
            盛輔
            ┃          
            盛定
油川家
           油川信貞
            ┃
            信忠
            ┣━━━┓
            信似 渡辺正利
            ┃
           武田信定 
            ┣━━━┳━━━━┳━━━┓
            信房 三浦信之 三浦政明 信照
            |
            信照
            ┣━━┳━━━┓
            信義 義豫 関根良貴
            ┣━━┓
            信続 信平
            |
            信平 
            ┣━━┳━━┓
            信任 信成 信邦
            |
            信成 
            |━━┓
            信邦 信行
            |
            信行
            ┣━━━┓
            信益 松次郎
            |━━━━━━━━┓
           松次郎       信吉 
            ┃        ┃
            虎彦       ふみ
            ┣━━┳━━┳━━|       
            忠夫 信男 吉彦 義正

熊本藩家臣
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。

           武田義信
            ┃
            正成 
            ┣━━━┳━━━━┳━━━━━┓
            正弘 板垣正信 河喜多新平 武下正武
            ┃              |
            正章  岩間正豊
            ┣━━┳━━┓        |━━┓        
            正茂 正師 基賢  正任 正業
            |━━┓           |        
            正師 正勝          基賢  
            |              ┣━━┓                   
            正勝             正莽 正兼
            |              ┃                   
            正為              某
            ┃              ┃                   
            正方              某
                           ┃                   
                           豊之允

米沢武田家
凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。

           安田信清(武田信清)
            ┣━━━━┳━━━━┓
           武田勝信 武田助十郎 女=本庄重長
            |          ┃
            信秀   武田信秀
            ┃
            信安
            ┃
            信全
            ┃
            信久
            ┃
            信福
            ┃
            信順
            ┃
            信明
            ┃
            信篤
            ┃
            大勝
            ┃
            信一
            ┃
            茂
            ┃
            昌信(現当主)

2009年01月21日

技は体術・武器術(剣・杖)を含み

技は体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である(ただし、現在は体術のみを指導する師範が大半で、武器術も指導する師範は少ない)。戦時中は旧陸軍中野学校や旧海軍大学校などでも盛平が指導していた。戦後も、自衛隊徒手格闘や警察の逮捕術の技術に大きな影響を及ぼし(多くの女性警察官が、警察学校在学中に修得する武道として合気道を選ぶという 対して男性警察官は多くが柔道・空手である)、機動隊や警察特殊部隊などでも研修が行われている。

技の形態
無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「呼吸力」「合気」などと表現し、これを会得することにより、“合理的な”体の運用によって“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく「小よく大を制す」ことが可能になるとされている。

合気道では「相手の欲するところを自ら与える」とし、一般的に相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。(先に自ら打って相手の攻撃を誘う場合もある。)
「入身」「転換」と呼ばれる独特の体捌きによって相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に入って自分有利の位置と体勢を確保する。
相手に呼吸を合わせて接触点が離れないよう保ちつつ、接触点を通して相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入ると反射的に相手からの反発を招き、力の抵抗にぶつかる・接触点が外れる等の不具合を生じ、技の流れを阻害する。このため「脱力」ということが特に推奨される。
また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の中心線上に相手を補足することにより、最小の力で相手の重心・体勢を容易にコントロールし導き崩すことができる。
体勢の崩れた相手に対し呼吸力をもって投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わないで技を掛けようとしても技は容易に掛からない。
このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連の流れを「結び」「導き」「崩し」と言い、合気道の技の大事な要素として強調することがある。(なお技に熟達すると、直接相手に触れずに、相手の攻撃のタイミングや勢いを利用し導き崩す場合もある。)

稽古の形態
稽古は一般的に、二人一組の約束組手形式(何の技を使うか合意の元に行う)の形稽古中心であり、「取り(捕り)」(技を掛ける側)と「受け」(技を受ける側)の役を相互に交代しながら繰り返し行う。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「当身」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われないが、合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つ(あるいは、関節技の動きの中に当身の理合が隠されている)と言われている(「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」という植芝盛平・塩田剛三の言葉も残されている)。蹴り技・足を使った固め技などは基本的には行わない。

柔道のような乱取り稽古は通常は行われない。ただし柔道とも関係の強い日本合気道協会のみ早くから乱取り稽古を取り入れている。主流会派である合気会では一部の例外を除き試合を行わないが、近年では日本合気道協会の他にも合気道S.A.など試合を行う会派も増えつつある。またほとんどの会派が、段級位制をとっている。

演武会
試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として演武会が開催される。演武とは予め決めた技を順番に演ずることで、同じ技であっても激しく叩きつけるように演ずる者、静かに淡々と演ずる者など個性が現れる。現在のように大勢の演武者が一堂に会して行うようになったのは戦後、植芝吉祥丸2代目道主からである。吉祥丸が合気道の普及に乗り出し、デパートの屋上で演武会を行うと知った盛平は非常に反発した。それまでの演武とは盛平が演武することであって、未熟な者が人前でその技を披露することなど考えられなかった。結局は吉祥丸に押し切られる形で演武会が開催され、現在では各会派が定期的に演武会を開催している。中でも(財)合気会が日本武道館で毎年行う「全日本合気道演武大会」は国内最大規模の演武会である。

一方で演武とは、技を観客に見せることが目的であるために、受け手には次に来る技が分かっており、未熟な受け手は投げ手に積極的に合わせてしまう事がある。それを見た観客の中には合気道をインチキや馴れ合い、あるいは八百長であると誤解する人もいる。

基本的な技
入り身投げ:相手の背後に入身して後ろ襟を取り相手を後方へ引き崩し、腕を相手の首に掛け、相手をそのまま崩した後方へ投げ倒す技。
回転投げ:相手の腕を持ち、大きく上から前、前から下に回し、その勢いで相手の頭を下げさせる。頭が下がったときに、反対の掌で頭部を押さえ、回した腕をそのまま下、後ろ、上と動かし、腕を垂直に立て、肩関節を極めて、前方に崩し投げる。相手の腕が大きく回ることから「回転」の名が付いたと言われる。
四方投げ:相手の腕をもって、相手の腕の外側から、相手の腕をくぐる(くぐると言っても自分の姿勢が崩れるようなくぐり方はしない)。相手の腕は外側にねじれることになるが、相手の腕を相手の後方に持って行くようにすると、肘が曲がり、相手は力が入らなくなる。そのまま、斜め後方に倒す。この時投げる方向や、相手の腕の角度によっては、筋肉や関節を痛めるため、基本的な技の中では一番注意が必要と言える。
小手返し:相手の手首を取り反対の手を相手の手の甲に添え手首を返しつつ肩関節を外転外旋、肘関節を屈曲、前腕を回外、手関節を屈曲させ斜め前方に投げた後相手を腹這いにさせ抑える。
一教:相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。
二教:相手の手首を取り小手をひねり手関節を屈曲、前腕を回内、肘関節を屈曲、肩関節を外転させひざまづかせた後腹這いにさせ抑える。
三教:相手の手首を取り体を回転させながらひねり上げて前腕を回内、肘関節を90°屈曲、肩関節を外転内旋させ爪先立ちにさせた後腹這いにさせ抑える。
(その他の主な技:四教、五教、六教(肘固め)、天地投げ、腰投げ、十字絡み、隅落し、呼吸投げ、合気投げ、合気落し 等)

(以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。)

技の呼称
合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼称は「技開始時の受け手・捕り手の位置的関係」または「技開始時の受け手の攻撃形態」に「上記の固有技名」を組み合わせる。

例えば、受け手が右手で捕り手の右手首を掴んだ状態を「片手交差取り」、「斜め片手取り」または「相半身片手取り」という。受け手が手刀を捕り手前額面の真上から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。

例:

正面打ち+小手返し
片手交差取り+呼吸投げ
など

合気と呼吸力
「合気」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道理念の中心とされる概念。

「合気」はもともと日本古来の武術用語であり、狭義では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。 合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず戦いを解消して平和な世界を創出し、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を表すものとされる。(盛平は「合氣とは愛なり」と語っている。)

「呼吸力」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、従前の「合気」を、盛平独自の主観を通して表現し直したものである。 合気道における「合気」が、主に精神性を表す言葉として用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。 この「呼吸力」が具体的に何の力を指しているかについては、盛平が古事記や神道を引き合いに神秘的・抽象的な表現で語ったため後代様々な解釈を生み、「呼吸(筋)の力である」「“気”の力である」「全身の筋肉を統一した力」など、意見は多岐に分かれる。また「実際の呼吸のように自然で無意識的な力の使い方」といった感覚の含意も指摘される。

合気・呼吸力について、小柄な老人が屈強な大男を幾人も手玉にとり簡単に投げ飛ばしたり押さえ込んでしまう不思議な技、というイメージが一般的に流布し、しばしば怪しげなものとして疑われることも多い。 合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理・錯覚や反射の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられているが、科学的実証的な研究が積極的に進められているとは言いがたい現状である。

一方、実際の合気道技法には上記のように心身の構造・物理法則に基づく多様な要素が含まれており、合気道熟達者に見られる、状況に応じて様々な合気道技法のうち最も効果的なものを遅滞なく選択し自在に発揮できる能力や感覚の総体が、合気・呼吸力と称されるものの実相であるという見解もあり、合気・呼吸力を単純に一つの原理として定義付けを図る論法自体に疑問も出ている。

合気道の武器術
合気道の武器術については、師範により下のように見解が分かれている。

合気道の体術に剣術や杖術の理合が含まれている。(あえて剣術や杖術を修練する必要がない)
体術のみでは不十分で剣術や杖術などの武器術も修練する必要がある。(「合気剣」や「合気杖」を修練する師範と、他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範に分かれる)
植芝盛平は岩間にて斉藤守弘と武器術の研究をし、斉藤が盛平の武器技を整理した合気剣と合気杖については、これを合気道の武器術と位置付ける師範と、合気剣と合気杖は斉藤の解釈が加わっているとして認めない師範とに分かれる。

他武道・他武術との関係

大東流合気柔術との相違点
技法や稽古法等は大東流合気柔術をほぼ継承している。大東流合気柔術、合気道ともに円の動きで技を掛けるが、大東流に比べ、合気道はより大きな円の動きで技を掛ける。これは、盛平の修行によって至った結論と思われる。 大東流は直線的、合気道は円の動きと分類する向きもあるが、稽古の段階により、あるいは技の種類によって合気道でも直線的でなければならない技もあり、大東流でも円転しなければ使えない技もあるので、はっきりどちらがどうであるとは言い切れない。

技術的には、合気道を大東流合気柔術の一会派とみなして、大東流合気柔術植芝伝と呼ぶ向きもある。事実、大東流合気柔術には多彩な会派があり、合気道がその中の一会派だという見解も成り立ちうる。しかし、大東流合気柔術と合気道で最も鮮明な相違は、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性だと考えられる。

盛平伝承の合気道は、剣杖など武器による武術を豊富に伝えていながら、古来の武術と一線を画して、万有愛護と宇宙の生成に寄与するためという意識が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられ、親英体道にも同様の思想性が見られる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。

柔道との交流
講道館柔道創始者・嘉納治五郎は植芝盛平の道場を訪れた事があり、その技に魅了された嘉納は望月稔、村重有利、杉野嘉男ら講道館の高段者数名に合気道の修行をさせており、合気道と講道館柔道との間で比較的盛んに交流が行われていた。

盛平の有力な弟子であった塩田剛三(養神館)、富木謙治(日本合気道協会)、望月稔(養正館)、田中万川(大阪合気会)、西尾昭二、清水健二(天道館)も、植芝に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は植芝の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。

剣道との交流
植芝盛平は剣術の研究のために、自らの道場「皇武館」で剣道の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道(神道無念流)の3人の高弟で「有信館の三羽烏」と呼ばれた中倉清(当時は盛平の婿養子)、羽賀準一、中島五郎蔵が行った。

健康法としての合気道
合気会系の道場では一般的に、稽古の始まりに盛平の考案による「合気体操」と呼ばれる鍛錬法を30分ほど掛けて行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟など稽古前の準備運動としての性格もあるが、「鳥船」「振魂」など神道の禊の行法の一部も取り入れられており、これ単独で“気の鍛錬”・“呼吸力の鍛錬”に効果があるとされる。また(財)合気会の理事であった西勝造の「西式健康法」も取り入れられている。

盛平は折有るごとに、「合気道は適度な運動で血行を改善し、骨格を矯正し、体内の“気”の流れを整えることで身体の“穢れ”をはらう“禊ぎ”である」…等と独自の宗教的表現で、合気道の健康効果について述べている。宗教的な儀式性と健康法を結びつけ、それを稽古の目的の一つとしていることも、他の武道には余り見られないユニークな点である。

「護身術」としての有効性に関する議論
通常の筋力や腕力に頼らず相手を制する武道であるということから、「非力な女性の護身術としても有効」と喧伝されてきており、そのように認識している人も少なくないが、現在その点に関し疑問を呈する声もある。

上記意見は、厳密な実験・検証を行い、信憑性の高い公式文書等に公開されたものではない。その意味で、内容はまったく信憑性のない独自研究である。しかし、ある都市伝説の存在も信憑性の高い公式文書で公開されたわけではないが、存在はするといっていい。同じようにそのような意見の存在は認めるべきであろう。

否定的な意見の根拠としては、

日常の稽古形式が形稽古に終始している道場が大多数である。型稽古とは、技をかける方(取り)、かけられる方(受け)を予め決めておき、互いにある程度わかった動きを行う稽古法である。この稽古のときは、受けは本気でこらえることはせず、むしろかけられやすいように動く。返し技(受けが最初に攻撃し、取りがそれを捌きかける技)の練習のときは、受けの最初の攻撃は前もって決まっている。そのように、相手が抵抗しない、相手の攻撃は前もってわかっている稽古だけで、実際の自由な攻防(相手は抵抗する、相手の攻撃はわからない)への対応力が養えているか疑問。
また、これに関係して、合気道が力を必要としないのは、「稽古では相手が抵抗しない型稽古しか行わないから、普段の稽古では力を必要としない、力で劣る人もできる」という意味であり、「護身術・武術として考えたときに合気道のテクニックが優れており、力を使わずとも相手を投げる・固める・制することが出来る」という意味ではない、という意見もある。
またその形稽古の技法が「片手取り」(攻撃者が相手の手首を掴みに来る)「正面打ち」(攻撃者が手刀を振りかぶって打って来る)など、現代の現実の格闘場面では考え難い攻撃法に対処する形になっている(これは合気道の元になった古流柔術が帯刀を前提とした時代のものであり、「抜刀しようと刀の柄に掛けた手を押さえる→片手取り」「刀で斬り掛かって来る→正面打ち」などの場面を想定した稽古法であったことに由来すると言われている)
加えて、合気道の型稽古の技法では、「受けは、多少不利な体制になってもつかんだ手を離さない」や「受けは背中側をとられたら前足を軸に振り向いて相手についていく」や「多少崩れたら、普通に耐えられそうでも受身を取る、(投げられる)」というように、現代の現実の格闘場面では考え難い前提が存在している。(これも、「手を離さない→刀を押さえているから離すと絶対不利」「前足を軸に振り向いてついていく→刀を持っていると前体重だから軸は前足、刀相手に中途半端な距離をとると絶対不利」「崩れたら受身→刀相手に体勢を立て直そうともたつくよりは、受身で大きく間合いを取るほうがいい」というような理由がある、といわれている。)
実際に筋力・腕力に頼らず相手を制する技術は、とても高度で難しいものであるとが予想できるが、高度で難しい技術の習得には多くの時間を要することが通常であり、社会が護身術に期待する速習速成という要求に応えられない。
などがあり、合気道をそのまま一般的な護身術として考えることに疑義を呈する。
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一方、日本合気道協会(富木流)では主に対短刀を想定した乱取り稽古を行っており、刃物に対する護身術としての合気道となっている。乱取り稽古を行わない会派では、養神館合気道や岩間神信合氣修練会が積極的に護身術としての合気道を指導している。これ以外にも独自に護身術としての合気道の可能性を研究する合気道家や独立会派も複数存在している。 また総合格闘技や空手の中に合気道と共通の技や捌きが見られることから、護身術としての有用性を見出す意見もある。